まちは畑のようなもの。
そこで商売をする
自分たちが耕していく
企業紹介川田自動車工業㈱
地域に根差した「まちのクルマ屋」として、登別市で創業51年(2023年現在)を迎える川田自動車工業株式会社の代表取締役、川田社長にお話を伺いました。
この地域の特有の文化を再度見直していくと、
コミュニティに影響するかもしれないね
- 現在、地域おこし協力隊として移住や関係人口創出に関わる活動をしています。
本気で移住を検討されている方を呼び込むのに苦戦中です。
以前、当社でも移住体験をされる方にレンタカーを利用してもらっていました。 移住にいたらなくても登別は観光地ですから、ここで特別な体験をしてもらえるのは良いことかなと思っています。コロナ以前はゴルフを目的に長期滞在する人も多かったんですよ。
- それはまさに関係人口ですよね。
ゴルフシーズンに毎年登別を選んで来てくれる人がくるだけでも大きいよね。登別と言えば温泉というイメージが強いけれど、それ以外のお客さんもつかんでみるのはどうだろう。今はリモートワークもできて、働き方も遊び方も多種多様な時代だから、新しいニーズを見つけていけたらいいのでは。
- そうですね! 登別ではワーケーションにも力を入れていて、昨年は市内で唯一の専門学校である
日本工学院北海道専門学校にサテライトオフィス「en」もオープンしました。
工学院の(自然豊かな)環境を利用して、例えば学校のサーキット場学校のサーキット場で雪の少ない地域の人のためのドライブ講習とか、それをインバウンド向けにアトラクションにしてみるのも面白いと思います。
- 地域外へのPRとともに、地元のみなさんにも利用してもらえるような取り組みもしてきたいと思っています。
そうだね。食べ物もそうだけど、もっと地元の人たちに登別のよいものを知ってもらうことが大事なのかもしれない。そこでブラッシュアップしながら価値を高めていけたらいいね。
- この西いぶり地域独特のボーダレスな暮らし方が面白いなと思いました。
それぞれの地域資源をシェアしているというか、あまり境界線がない感じがします。
ボーダレスな暮らし方という表現は面白いですね。言われてみるとたしかに経済、生活圏をシェアしている感じはあります。「シェア」を市民に浸透、この地域の特有の文化を再度見直していくと、コミュニティに影響するかもしれないね。
自分たちで遊びを創造していましたね
- 川田社長の登別での思い出を聞かせてください。
子供の頃はどんなところで遊んでいましたか?
ぼくは幌別地区に住んでいて、遊びと言えばもっぱら裏山の探検や、冬はソリやミニスキーを楽しんでいましたね。
- 登別には海も山もありますもんね。
ただ滑るのではなくジャンプ台を作って競技にしたりして、自分たちで遊びを創造していましたね。ロープを張って崖の壁面に顔を彫刻するっていう遊びもしていました。彫った後に対面の山に移動して確認。それを繰り返しながら仕上げていくんです。
- 遊びが壮大 (笑)。
そうでしょう (笑)。あとは川釣り。川カジカを釣り上げて焚火をして煮たり、焼いて食べてみたり。調味料もないから美味しくないんだけど (笑)。川ガレイもよく釣りましたよ。素手で捕まえるんです。
- 素手で! 川ガレイは素手で捕まえられるほど鈍いんですか?
いや。自分たちが機敏だったってことかな・・?
- なるほど! (笑)
あとは川歩きをして、化石を見つけたりもしましたよ。葉っぱがそのまま化石になっているんです。自慢しようと当時の担任の先生に見てもらったら、「教材として使おう」と没収されちゃったけどね。
登別を出たことで自分が「井の中の蛙」であることを実感したし、
逆に地元の価値、魅力を知ることができました
- 子供たちの遊びは変わってしまいましたが、川田社長が遊んでいた時の風景は今もあまり変わっていないのかもしれませんね。
高校を卒業されてからは札幌で過ごされていたのですか?
高校卒業後、父親は地元に通って欲しいようでしたが、とにかく一度札幌に行きたかったんです。最初はホームシックになりましたよ。だんだんと生活にも慣れて、遊びやアルバイトも忙しくなり、下宿先のお母さんには少し迷惑かけてしまったかな (笑)。先生や友人の協力もあって無事整備士の資格も取得して学校を卒業し、そのまま札幌の整備会社に就職しました。はじめは小さな会社でしたが、東札幌にショールームをつくることになり、ディーラーとして自動車販売をスタートした際に、自分も整備士から販売営業になりました。といってもまだまだ人出が足りなくて、昼間は営業として外回り、夜は整備士として自分の販売した自動車のオプション部品を取り付けていましたね。
- 営業と整備を兼任されていたのですか!
当時は今みたいに標準装備されているものが限られていましたからね。大変でしたよ。でもそのうち後輩も増えて、営業一本になりました。 当時の社長にはとてもお世話になって、家族のように接してもらいました。プライベートではよく一緒に飲みに行ったり、仕事の面でも整備、営業、経理までいろんな経験をさせてもらって。おそらく社長もいずれは僕が登別の家業を継ぐのだろうと考えてくれていたのだと思います。
- そのような環境の中で登別に戻るきっかけは何だったのでしょうか。
家族も札幌の生活に慣れてきていましたし、自分もここで暮らしていくのもいいかなと思い始めていたところに社長から「会社を継がないか」という話をもらいました。同時期に実家のほうからも戻ってくるのかという確認の連絡があったのです。 登別に戻らないなら今でいうM&Aなどの方法で事業継承を考えなければ、と。 札幌で勤めていた会社も家族ぐるみで温かい環境ではあったけれど、子どもの頃の記憶に残る父親の会社はさらにアットホームでした。社員とその家族みんなでキャンプに行ったり。それに憧れている自分もいて、迷った末に登別に戻ることを決意しました。
- 登別に戻ってきて、札幌での経験は活きましたか。
最初は同じ業界で働いてきたし大丈夫だろうと思っていたのですが、取り扱う車種が全く違い苦労しました。土地柄、乗用車ではなく作業車やバスなど大型車が多かったんですね。全く違う車種だと仕事の内容も違うし、なにより作業着の汚れ方が違う。戻ってきた当初はまた整備の現場から始めたので、慣れるまで大変でした。乗用車の整備以上に力仕事だし、汚れ作業も多くて過酷。出張修理も多くて、峠でタイヤが外れたり動かなくなったという依頼もよくありました。
- 後継ぎとして登別に戻ってきて、周囲やご自身の変化はありましたか。
おこがましいけれど、当時、会社の中で現場の声を上に届けるということは自分にしかできないことだったので、よく父親とぶつかっていましたね。仕事以外では当時の工場長から引き継いで商工会議所青年部に入り、異業種の同年代の人たちとの交流を通してまちづくりにも興味を持つようになりました。ここでの活動は仕事にも生きたと思います。 会社としてまちづくりに関わることも大事。まちを畑として考えてみて、ここで商売をする自分たちが耕していかねばならない、ということに気づかされたのが青年部での活動でした。また、異業種からの情報を得ることによって経営者としての自覚も芽生えました。
- 外と繋がることはご自身のお仕事にも影響があったのですね。
それまでは現場の声を届けようと父親とも衝突していましたが、外と繋がることによって経営者が孤独だったということに気づきました。そこから父親との関係も変わりましたね。
- 商工会議所青年部ではどのような活動をされていたのですか。
自分が会長になったタイミングで、全国会長研修会を登別で開催しました。登別は北海道の中でも2番目に古い団体で、歴史もある。北海道で全国会長研修会開催の話が上がったときに辞退した団体があって、自分たちが手を挙げたわけです。このような全国規模のイベントを開催するには他の地域の青年部に出向をしなければならず、会長である僕が行くことになりました。
- お仕事との両立は大変だったのではないでしょうか。
そうですね。会社の了解を得るのに苦労しましたが、父親が許してくれて。会社と家族には迷惑をかけたと思います。ただ、再度登別を出たことで自分が「井の中の蛙」であることを実感したし、逆に地元の価値、魅力を知ることができました。さらに全国の同士が取り組んでいるまちづくりを知ることができたのも良い刺激になりましたね。 北海道、札幌は知名度もあるけれど、登別は知らない人も多かったから「蛇口をひねると温泉がでる」「まちの中を普通に熊が歩いている」なんて言って驚かせて… (笑)。当時の仲間とは今でも繋がっています。
- 今も蛇口から温泉がでると思っている人がいそうですね (笑)。
登別で生まれて、札幌での生活と戻ってきてから青年部での活動を経て、
改めて登別の好きなところはどんなところですか。
商工会議所青年部の活動で全国をまわり、改めて都会とは違う地元の人間関係の豊かさを実感しました。歴史の歩みもあって、地区としては4つ(温泉街、登別駅、幌別、鷲別)に分断されているように見えるけれど、それを超えて協力し合おうという人たちがたくさんいます。人と人の関係性が良いまちです。 風景なら地獄谷や倶楽(クッタラ)湖も確かに良いけれど、札内平原から見える漁火も素晴らしいですよ。 あとは鷲別岬。クジラのように見える岬なのですが、登ると絶景です。登別の海岸線と反対側からは白鳥大橋を眺めることができて、珍しい草花も楽しめる穴場です。
北海道の人はあったかいなと
実感しています 川田自動車工業㈱
大野 健 さん
昨年Uターンし川田自動車工業で働く大野さんにもお話を伺いました。
- 登別に来る前はどこで、どのようなお仕事をされていたのですか。
もともと室蘭で車関係の仕事をしていましたが、転職後に出張で訪れた埼玉で車のホイールに塗装をする仕事を見つけて、そのまま就職しました。 いずれは独立して地元でこの仕事をしたいという気持ちがあり、5年間働いた後、登別に戻ってきました。ホイールの塗装は札幌や北広島にもありますが、登別周辺にはそういった会社がないので地元で起業したいと思っています。
- 大野さんがされていたような塗装の需要は多いのですか。
前職の先輩からは自動車業界に限ってしまうと厳しいけれど、特殊なことができれば生き残っていけるのではと言われていました。 車のパーツだけではなくて、例えば芸術家からの依頼で展示会に出品するような作品への塗装など、そういった仕事ができればと思っています。車は入り口で、誰もやっていないことに挑戦したいです。
- 登別に戻ってきたきっかけはなんだったのでしょうか。
戻ってきたのは祖父の体調のことなどもありましたが、埼玉にも友人、知人がいてそれなりに楽しんではいたものの、やはり最終的には地元に戻りたいと考えていました。 一番の理想は埼玉の仕事が登別にあることなんですけど笑、埼玉で暮らしていた時はとにかく連休が楽しみで。それくらい地元に帰るのが楽しみだったんですね。帰省した際に苫小牧の姉も、毎回埼玉へ戻るときの僕のさみしそうな姿をみて「早く帰っておいで」と言ってくれていました。埼玉にも面倒を見てくれる人がいてとてもお世話になりましたが、やはり一人の時間が多かった。地元に帰ってきてからは仕事が終わった後でも、気軽に連絡できる人、連絡をくれるがいて、余暇を有効に使えていると思います。
- 移住担当として伺いたいのですが、登別をPRするとしたらどんなところでしょうか。
温泉ですかね。
- 温泉はよく行かれるんですか?
いかない… ですね!
- (川田社長) 説得力ないな!
そうなんですけど(笑)… 先日友人と入った苫小牧の銭湯がとても気持ちよくて。 今年はいろんなところに行ってみたい、それを趣味にしてみたいなと思っています。
- では湯めぐりの後にもう一度お話を聞かせてください(笑)。
地元に戻られて、改めて登別の良さはどんなところだと思いますか?登別に限らずなんですが、北海道の人はあったかいなと実感しています。東京の大きな駅を歩いていると、自分の進む方向に突き進んでいて、交差する人への気遣いがない。誰もが自分のことばかりで人に無関心。寂しかったですね。
登別に帰ってきて、例えば外食をしていている時に、お店の人との話し方ひとつにしてもこちらの人のあたたかさを感じます。人ですね。やっぱり。
好きな場所として挙げるなら、日本工学院北海道専門学校から少し奥にはいったところ、札内町あたりがとても星がきれいなんです。よく星を見に行きました。周りに何もないから真っ暗でよりきれいに見えます。
- 今の仕事の楽しさはどんなところですか。
また、もし一緒に働くならどんな人と働きたいですか。まだ塗装の仕事はできていないけれど、今までも車の業界に携わりながら知らないことがたくさんあるなと感じています。実際に現場で車をばらしたり、組み立てたりして、なぜこのようになっているかを先輩に教えてもらいながら覚えていくのが楽しいです。
ただ目標はやはり塗装! ここはブレずにいたいです。
- (川田社長) 一番難しいのは人間関係だと思うのですが、彼はムードメーカーでよくやっています。
一緒に働くなら目標を持っている人と働きたいですね。 こういう仕事がしたい、こういう人間になりたい、というような話を聞かせてもらいたいし、自分とは違う考えを吸収したいです。
川田社長が憧れ続けた「アットホームな会社」。
実際に会社にお邪魔してみて、それは社内だけではなく、お客さまにとっても居心地の良い場所であることを目指されているのだなと感じました。
「地域に根差した『まちのクルマ屋』として、(中略)クルマの事なら何でも頼りになる『ホスピタリティ・カーコンシェルジュ』でありたい」
創業当時からの想いは変わらず、時代にあわせて柔軟に変化をしていく川田自動車工業。お二人の話を聞いていると近い未来、車だけにとどまらず川田自動車ならではの新しいサービスが生まれるのでは?とワクワクしてきます。
「車は入り口、いずれは起業したい」と目を輝かせながらお話する大野さんを温かく見守る川田社長の姿が印象的でした。
「まちづくり」も難しく考えず、川田社長が言うようにまちを畑に例えてみて、わたしの暮らし、活動がまちを耕すことに繋がるように、アンテナ全開で動き回ろうと思います。
みなさんから頂いた種がいつか芽を出しますように。川田社長、大野さん、ありがとうございました。
1972年 創業。
地域のためのクルマ屋として、軽自動車から大型自動車等車種問わずの車検・点検、整備、板金塗装、車両販売、レンタリース、保険等のトータルサービスを提供 。
地域に根ざした「まちのクルマ屋」として、アットホームな真心サービスと、キャリアがあるベテランメカニックによる確かな技術力を提供しています。